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【物語論】物語と現実のカタルシス【シン・ヱヴァンゲリヲン】

お久しぶりでございます。若の旦那でございます。

 

今回は「シン・ヱヴァンゲリヲン」を劇場に見に行き、そして感じたことをいくつかのほかの作品と比較して述べていきたいと思います。

 

※以下、この記事にはネタバレ及び私の独自の見解が含まれます。「シン・ヱヴァンゲリヲン」「魔法少女まどか☆マギカ」「Charlotte」などの作品をご覧でない方、もしくは興味がある方は一度ブラウザバックし該当の作品に目を通してからお越しください。

 

 

 

 

今回は「カタルシス」というものについて私が考えたことを述べていきます。

まず「カタルシス」とは、『舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること。浄化。』(Wikipedia)とあり、その言葉の起源は古代ギリシアに生きたアリストテレスにあります。その後医学用語に転用され、精神科医フロイトによって「代償行為によって満足を得る治療行為」という意味としても用いられるようになりました。物語論においては端的に言うと「モヤモヤを解消しスッキリさせる」意味としてよく用いられています。

私が「シン・ヱヴァンゲリヲン」を含む作品群「新劇」を通して感じたカタルシスは以下のようなものです。

 

・内向的で他者との心のふれあいを拒絶してきたシンジが序、破、Qを通じて様々な人々と出会い関係を結ぶ中で成長し、最も苦手だった父親と対峙し想いを通じさせた感動

・「ヱヴァンゲリヲン」とは一体何だったのか。それはアンビリカルケーブルやエントリープラグ、LCLなどといったものに暗示されるように母の胎内であり、最終的にはやはりシンジが母に救われる結果となったという感動

・「旧劇」では描かれることのなかった碇ゲンドウの内面に焦点を当て、最後の「人類補完計画」を達成したという感動

 

そして何より

全ての「ヱヴァンゲリヲン」を破棄することで不可逆的に世界を再構築し物語の世界と我々の住むこの世界を繋げすべてのファンの「卒業式」を行ったこと

 

ここからは私の完全な主観と考察になります。

上に挙げたもののうち、前の三つは「物語」としてのカタルシスです。物語論でよく言われる「起承転結」の結に当たる部分です。この「ヱヴァンゲリヲン」という作品においてこの結末を生み出すこと自体が偉大であることは言うまでもありません。旧劇と比較してみてもこの結末は多くの人が納得できるものに仕上がっています。

 

では、最後の一つに関して言えば、これは「物語」のカタルシス「現実」で起こったカタルシスが混在しているのです。

赤字の部分は言うまでもなく「物語」の中で起こった出来事ですが、それを因果として青字の部分「物語の世界と我々の住むこの世界を繋げ」ているのです。

これまでの作品でも、「主人公たちの持つ特異な能力を用いて同様な能力を不可逆的に破壊(消去)することによって平和な世界にする」というカタルシスの方法論はありました。例を挙げるならば「魔法少女まどか☆マギカ」の主人公まどかが最後の願いとして「魔法少女が生まれない世界にする」ことで自らの存在と引き換えに世界を再構築します。「Re:CREATORS」においては少し角度を変えており、主人公は狂言回しの立場でありながら主人公の友だちであり故人でもある少女をある種の「召喚」のような作業によって組み込み、敵勢力の排除に成功します。その後異世界から来た登場人物たちを元の世界に返し、そうした能力を持つものはいなくなり終結します「Charlotte」では文字通り「世界の能力者の能力を丸ごと奪い去る」強引な方法で不可逆的に同じような犠牲者が生まれない世界を作ります。

このように作品としての前例はいくつもある中、この「シン・ヱヴァンゲリヲン」が特異である点。それは、現実で我々が過ごした時間と物語の中で経過した時間が近似していることです。それゆえに「Q」で14年の月日が流れ浦島太郎になった観客を飲み込み感動させることができたのです。「Q」の公開は2012年11月17日。「シン・」までおよそ9年の時間をかけて我々も歳を重ねているのです。

「シン・」には我々の時間と作中の時間をリンクさせるための仕掛けがいくつも用意されています。第三村での生活シーンはまさに「復興」そのもの。東日本大震災からの復興、もっと遡れば第二次世界大戦からの復興のように。すべてを失った人々の、なおかつ同級生だったトウジやケンスケの成長し、社会で無二の立場を得て生きる姿を通して子供のままのシンジや外の世界を知らない別アヤナミなどに示していきます。観客はこの姿をシンジや別アヤナミの目線から観ることになり、自分自身に蓄積した年月や経験を感じながら物思うわけです。父ゲンドウとの対峙のシーンでは東宝の3Dスタジオが使われたり、最後の宇部駅でのシーンで使われている現実の世界の風景であったりと、こういったところにも物語と現実をリンクさせようとする意図が見られます。またこのシーン、向かいのホームには母たる綾波と父たるカヲルの姿があり、しかしそれでいて恋人になっているのはマリ。ここで世界の再構築が完了していることに観客が気付き、「ヱヴァンゲリヲンのない現実によく似た世界」を手を繋いで走っていくラストカットで終わるわけです。観客はやはりシンジの「成長」を自分に重ねて観つつも、「かつてエヴァがこの世界にもあったのではないか」と思わせるほどの没入感に包まれ、カタルシスを感じるわけです。

 

このように、「シン・ヱヴァンゲリヲン」にはカタルシスという概念に対し、様々なアプローチをかけてその効果をより発揮できるように仕掛けを組んでいたことが分かります。これまでも存在した方法論に加え、緻密に計算されたカメラアングルやカット割り、ストーリー構成の部分から観客の没入感を引き出し、そしてそれらをまさに「浄化」するカタルシスに結実させるという見事なものでした。

 

惜しむらくはここまで書いていつつも、お恥ずかしいことに、先日まで私は「ヱヴァンゲリヲン」という作品を摂取することなくオタクとしての人生を歩んできました。思えば私をこの道に引きずり込んだのは「銀魂」と「Steins;Gate」でした。特に「銀魂」では幾度となく「ヱヴァンゲリヲン」ネタやパロディを目にしているにもかかわらず、なんとなくでそれを楽しんでいたのです。

また、先日私は遅ればせながら「響け!ユーフォニアム」を視聴し、なぜもっと早くにこの作品に触れておかなかったのか、当時の自分は何をやっていたのかと後悔し、俗にいう「斜に構えて当時流行している作品を観ない系のオタク」からの卒業を決心しました。まさに涙の決断でした。

そして2021年3月8日、全国で公開された「シン・ヱヴァンゲリヲン」これを観ないことで起きるであろう悲しみを自分はもう二度と味わいたくない。「ユーフォ」の涙にそう誓った私はまずTV放映版の「新世紀ヱヴァンゲリヲン」を一晩にして完全走破し、「Air/まごころを君に」と合わせて旧劇と呼ばれるヱヴァンゲリヲンの作品群を全て視聴するに至りました。

なるほど。これは分からん。そう思った私は次に新劇場版の走破に着手しました。

「新劇場版ヱヴァンゲリヲン序・破・Q」これら三作品を連続で視聴しました。序は旧劇場版のリメイクと解釈するとして、しかしながら新規カットの中にはいくつかの重要な伏線も張られており片時も目が離せません。破から違和感を感じ始め、Qに至っては思わず頭を抱えました。分からない。頭では理解できているつもりの事柄をいくつも整理しなければ物語を解釈できない。そもそも風呂敷をここまで広げてしまって物語を完結にまとめることができるのか。そういったもどかしさに悶えつつも私はそのまま徹夜で「シン・ヱヴァンゲリヲン」に向かったのです。

 

「シン・ヱヴァンゲリヲン」を視聴したのち、自分の中に残っていた「終幕への疑念」は春風に吹かれ消し飛び、目の前に光が差すような気分でした。

 

そしてこの「カタルシス」を言語化したいと思いこの記事を書くに至りました。NHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」での庵野監督の苦しみを知り、また劇場パンフレットで各声優さんの思いを知り、筆舌に尽くしがたい感情に振り回されてなかなか言葉が出てきませんでした。ない文才と脳みそを二週間ほどフル回転させやっとのことで出てきた言葉がこの駄文です。どうぞ温かい目で読んでいただければ幸いです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

以下リンク

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序  

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破

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ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08QKN4WGD/ref=atv_dp_share_cu_r

シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版 公式サイト

www.evangelion.co.jp