oons0531のブログ

タバコ一本あればいい。

【物語論】物語と現実のカタルシス【シン・ヱヴァンゲリヲン】

お久しぶりでございます。若の旦那でございます。

 

今回は「シン・ヱヴァンゲリヲン」を劇場に見に行き、そして感じたことをいくつかのほかの作品と比較して述べていきたいと思います。

 

※以下、この記事にはネタバレ及び私の独自の見解が含まれます。「シン・ヱヴァンゲリヲン」「魔法少女まどか☆マギカ」「Charlotte」などの作品をご覧でない方、もしくは興味がある方は一度ブラウザバックし該当の作品に目を通してからお越しください。

 

 

 

 

今回は「カタルシス」というものについて私が考えたことを述べていきます。

まず「カタルシス」とは、『舞台の上の出来事(特に悲劇)を見ることによってひきおこされる情緒の経験が、日ごろ心の中に鬱積(うっせき)している同種の情緒を解放し、それにより快感を得ること。浄化。』(Wikipedia)とあり、その言葉の起源は古代ギリシアに生きたアリストテレスにあります。その後医学用語に転用され、精神科医フロイトによって「代償行為によって満足を得る治療行為」という意味としても用いられるようになりました。物語論においては端的に言うと「モヤモヤを解消しスッキリさせる」意味としてよく用いられています。

私が「シン・ヱヴァンゲリヲン」を含む作品群「新劇」を通して感じたカタルシスは以下のようなものです。

 

・内向的で他者との心のふれあいを拒絶してきたシンジが序、破、Qを通じて様々な人々と出会い関係を結ぶ中で成長し、最も苦手だった父親と対峙し想いを通じさせた感動

・「ヱヴァンゲリヲン」とは一体何だったのか。それはアンビリカルケーブルやエントリープラグ、LCLなどといったものに暗示されるように母の胎内であり、最終的にはやはりシンジが母に救われる結果となったという感動

・「旧劇」では描かれることのなかった碇ゲンドウの内面に焦点を当て、最後の「人類補完計画」を達成したという感動

 

そして何より

全ての「ヱヴァンゲリヲン」を破棄することで不可逆的に世界を再構築し物語の世界と我々の住むこの世界を繋げすべてのファンの「卒業式」を行ったこと

 

ここからは私の完全な主観と考察になります。

上に挙げたもののうち、前の三つは「物語」としてのカタルシスです。物語論でよく言われる「起承転結」の結に当たる部分です。この「ヱヴァンゲリヲン」という作品においてこの結末を生み出すこと自体が偉大であることは言うまでもありません。旧劇と比較してみてもこの結末は多くの人が納得できるものに仕上がっています。

 

では、最後の一つに関して言えば、これは「物語」のカタルシス「現実」で起こったカタルシスが混在しているのです。

赤字の部分は言うまでもなく「物語」の中で起こった出来事ですが、それを因果として青字の部分「物語の世界と我々の住むこの世界を繋げ」ているのです。

これまでの作品でも、「主人公たちの持つ特異な能力を用いて同様な能力を不可逆的に破壊(消去)することによって平和な世界にする」というカタルシスの方法論はありました。例を挙げるならば「魔法少女まどか☆マギカ」の主人公まどかが最後の願いとして「魔法少女が生まれない世界にする」ことで自らの存在と引き換えに世界を再構築します。「Re:CREATORS」においては少し角度を変えており、主人公は狂言回しの立場でありながら主人公の友だちであり故人でもある少女をある種の「召喚」のような作業によって組み込み、敵勢力の排除に成功します。その後異世界から来た登場人物たちを元の世界に返し、そうした能力を持つものはいなくなり終結します「Charlotte」では文字通り「世界の能力者の能力を丸ごと奪い去る」強引な方法で不可逆的に同じような犠牲者が生まれない世界を作ります。

このように作品としての前例はいくつもある中、この「シン・ヱヴァンゲリヲン」が特異である点。それは、現実で我々が過ごした時間と物語の中で経過した時間が近似していることです。それゆえに「Q」で14年の月日が流れ浦島太郎になった観客を飲み込み感動させることができたのです。「Q」の公開は2012年11月17日。「シン・」までおよそ9年の時間をかけて我々も歳を重ねているのです。

「シン・」には我々の時間と作中の時間をリンクさせるための仕掛けがいくつも用意されています。第三村での生活シーンはまさに「復興」そのもの。東日本大震災からの復興、もっと遡れば第二次世界大戦からの復興のように。すべてを失った人々の、なおかつ同級生だったトウジやケンスケの成長し、社会で無二の立場を得て生きる姿を通して子供のままのシンジや外の世界を知らない別アヤナミなどに示していきます。観客はこの姿をシンジや別アヤナミの目線から観ることになり、自分自身に蓄積した年月や経験を感じながら物思うわけです。父ゲンドウとの対峙のシーンでは東宝の3Dスタジオが使われたり、最後の宇部駅でのシーンで使われている現実の世界の風景であったりと、こういったところにも物語と現実をリンクさせようとする意図が見られます。またこのシーン、向かいのホームには母たる綾波と父たるカヲルの姿があり、しかしそれでいて恋人になっているのはマリ。ここで世界の再構築が完了していることに観客が気付き、「ヱヴァンゲリヲンのない現実によく似た世界」を手を繋いで走っていくラストカットで終わるわけです。観客はやはりシンジの「成長」を自分に重ねて観つつも、「かつてエヴァがこの世界にもあったのではないか」と思わせるほどの没入感に包まれ、カタルシスを感じるわけです。

 

このように、「シン・ヱヴァンゲリヲン」にはカタルシスという概念に対し、様々なアプローチをかけてその効果をより発揮できるように仕掛けを組んでいたことが分かります。これまでも存在した方法論に加え、緻密に計算されたカメラアングルやカット割り、ストーリー構成の部分から観客の没入感を引き出し、そしてそれらをまさに「浄化」するカタルシスに結実させるという見事なものでした。

 

惜しむらくはここまで書いていつつも、お恥ずかしいことに、先日まで私は「ヱヴァンゲリヲン」という作品を摂取することなくオタクとしての人生を歩んできました。思えば私をこの道に引きずり込んだのは「銀魂」と「Steins;Gate」でした。特に「銀魂」では幾度となく「ヱヴァンゲリヲン」ネタやパロディを目にしているにもかかわらず、なんとなくでそれを楽しんでいたのです。

また、先日私は遅ればせながら「響け!ユーフォニアム」を視聴し、なぜもっと早くにこの作品に触れておかなかったのか、当時の自分は何をやっていたのかと後悔し、俗にいう「斜に構えて当時流行している作品を観ない系のオタク」からの卒業を決心しました。まさに涙の決断でした。

そして2021年3月8日、全国で公開された「シン・ヱヴァンゲリヲン」これを観ないことで起きるであろう悲しみを自分はもう二度と味わいたくない。「ユーフォ」の涙にそう誓った私はまずTV放映版の「新世紀ヱヴァンゲリヲン」を一晩にして完全走破し、「Air/まごころを君に」と合わせて旧劇と呼ばれるヱヴァンゲリヲンの作品群を全て視聴するに至りました。

なるほど。これは分からん。そう思った私は次に新劇場版の走破に着手しました。

「新劇場版ヱヴァンゲリヲン序・破・Q」これら三作品を連続で視聴しました。序は旧劇場版のリメイクと解釈するとして、しかしながら新規カットの中にはいくつかの重要な伏線も張られており片時も目が離せません。破から違和感を感じ始め、Qに至っては思わず頭を抱えました。分からない。頭では理解できているつもりの事柄をいくつも整理しなければ物語を解釈できない。そもそも風呂敷をここまで広げてしまって物語を完結にまとめることができるのか。そういったもどかしさに悶えつつも私はそのまま徹夜で「シン・ヱヴァンゲリヲン」に向かったのです。

 

「シン・ヱヴァンゲリヲン」を視聴したのち、自分の中に残っていた「終幕への疑念」は春風に吹かれ消し飛び、目の前に光が差すような気分でした。

 

そしてこの「カタルシス」を言語化したいと思いこの記事を書くに至りました。NHKで放送された「プロフェッショナル 仕事の流儀」での庵野監督の苦しみを知り、また劇場パンフレットで各声優さんの思いを知り、筆舌に尽くしがたい感情に振り回されてなかなか言葉が出てきませんでした。ない文才と脳みそを二週間ほどフル回転させやっとのことで出てきた言葉がこの駄文です。どうぞ温かい目で読んでいただければ幸いです。

 

最後までご覧いただきありがとうございました。

 

以下リンク

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 序  

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08QKVXLL7/ref=atv_dp_share_cu_r

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 破

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08QKN7LBD/ref=atv_dp_share_cu_r

ヱヴァンゲリヲン新劇場版 Q

https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B08QKN4WGD/ref=atv_dp_share_cu_r

シン・ヱヴァンゲリヲン劇場版 公式サイト

www.evangelion.co.jp

 

 

玉に瑕の話

皆さんこんばんは。お久しぶりです。

 

最近この人生初めての大きな失敗をしました。失敗、というよりも自業自得です。例えるならばなんとなくで買った賞味期限ギリギリの牛乳を冷蔵庫に入れたまま放置して数ヶ月が経ち、魔が差して作った別の料理も冷蔵庫に入れていたら突然家に母親が押しかけてきてその混沌に満ちた冷蔵庫を見て絶句した、といった感じでしょうか。例えがうまくない?ええそうでしょうね、こんな例えではどうしようも無い失敗でしたからねぇ。

 

さて、そんな大きな失敗を犯した私は、コロナのおかげで持て余した本来の大学生としての時間を使ってさまざまなことを考えました。さてこれからどうするか。いっそ死ぬしかないのではないか?なにせ人生で初めての出来事ですから、自分では何も考えがまとまりません。ましてや一日中足の踏み場のないような部屋に住んでいては浮かぶ答えもろくなものではありません。それでもなんとかして出した結論は中身スカスカ、中学生の弟にも鼻で笑われるようなものでした。

 

そうして何もかもまだ解決せず、人生というジャンプ台からバンジーし、足枷から延びたゴム紐の伸縮もまだ落ち着かぬところにある作品に出会いました。

 

SHIROBAKO」ってご存知ですか。

放送自体は6年前のものです。名作と噂に聞きつつも、恥ずかしながら原作未読かつ今日この日まで引っ張ってしまいました。

SHIROBAKO」つまり「白箱」というのは映像業界における作品のスタッフ確認用として手渡されるビデオテープの事です。この作品では、主人公たち5人がそれぞれ高校を卒業した後、部活でアニメを作ったことをきっかけに就いたそれぞれの職業での苦闘と困難、またそれにめげず立ち向かう姿が描かれています。

 

詳しい内容のあらすじはネタバレになるかと思いますので避けますが、アニメ業界の一端を知ることができる作品なのではないでしょうか。その中でも私の琴線に触れた箇所をいくつかさらっと紹介します。

 

5人はそれぞれ、高校時代での経験を経て現在の仕事に至る経緯も心情表現にて描かれています。新人の頃から周囲の人間のトラブルに巻き込まれてしまう者、周囲からの評価と自己評価の違いに気づかず自信のなかった者、自分のやりたいことができずに燻る者、苦しい環境にありながらも芽を出そうと必死になる者、夢のために勉強を続ける者。テーマとして「お仕事系アニメ」「ワーキングウーマン」「青春モノ」の匂いがプンプンする外見から、彼女たちが苦悩し、そしてその壁に周囲の力を借りつつも立ち向かい、1つの「作品」の完成に向けてひたすら奮闘する姿はそういった薄っぺらいラベルをひっぺがして吹き飛ばすエネルギーすら感じるものでした。オジサン、デブ、アラサー、バツイチなど、負の側面にすらなりうる要素を持った者でさえ輝きカッコよく描き、当たり前ですが「普通の人」の「良い仕事」を見せてくれます。ストーリーにも主人公の経験値と同期した伏線が用意され、展開ごとに心情を思いつつも視聴者に涙を浮かべさせ、ラストは誰もが納得し諸手を打つ、そんな作品でした。

 

 

 

話を戻すと、私は今、自分で掘った穴の中にいるのです。いわゆる「墓穴」でしょう。まっすぐ前に向かう道の途中に、大きな穴を掘り、そして落ちてしまったのです。穴の中にいる人間には、どちらが来た道で、どちらが行く道なのかは分かりません。穴の中は暗く、目指すべき光は遠く彼方に微かに見えるのみです。しゃがみ込んでこのまま朽ちるまで待とうとしたところ、穴から這い出ようとする山椒魚を見たわけです。幸い山椒魚ほど肥え太っていなかった私はなんとかその壁をよじ登り穴から出ることができました。

 

さてここからは未来の話。私が来た道に退行するのか、行くべきだった道に踏み出すことができるのか、はたまた全く違う方角の道を切り開くのか。それはまだ私にも分かりません。ですが、また前に進めれば私の「傷」は「瑕」になるでしょう。というか、そうなることを願って前に進むつもりです。

 

では最後に、思ったよりも小さくまとまったのでお気に入りの曲から歌詞をお借りして締めくくらせていただきます。

 

「ほんの少しくらいのキズは 君を強くする魔法」 

ハヤシケイ/キズ

 

 

 

 

読書の話

こんばんは。

外はもう肌寒いですがギリ秋って感じですね。この前釣りに行った時には本栖湖のあたりの紅葉の綺麗さにびっくりしました。いい季節です。

 

さて、秋といえば皆さんは何の秋になるのでしょうか。僕は断然食欲の秋ですが、このままだと冬眠前の熊みたいな体格になること間違いないのでやや控えたいところです。

 

次点で読書の秋。今日は「読書」をテーマにしようと思って書いています。

 

昔から本というものとは身近に接してきました。幼い頃には母親の読み聞かせてくれる絵本。ゲームや携帯はなかなか買ってもらえなかったけれども本だけはねだれば買ってくれるという母親の方針もあってか、実家の本棚は、特に絵本は溜まりに溜まってちょっとした児童書コーナーのようになっていました。

やがて時が経ち、小学生の頃の僕は「ハリーポッター」シリーズにどハマりします。当時まだ3作目の「アズカバンの囚人」が出たばかりの頃。金曜ロードショーでの放映からハリポタ沼に足をすくわれた僕はその年のクリスマスに「賢者の石」をねだります。翌朝枕元にあった分厚い本に目を輝かせ、その日1日中読みふけっていたのを覚えています。皆さんご存知の通りハリーポッターシリーズは単行本だったため小学生の僕には高級品でした。おいそれと次の作品を買って読める値段ではなく、同じ作品をひたすら読み返しては世界観に浸っていました。

やがてシリーズは完結し、中学生になった僕は僅かながらお小遣いを手にするようになります。今でも変わりませんが、その頃から浪費癖があり、近所の古本屋まで自転車を走らせては定価よりも安く売られている好きなライトノベルのシリーズを買い集め読み耽りました。同じ巻を何周も何周も読み、お小遣いをもらっては本につぎ込むというのが中学生の頃の僕の楽しみでした。

ちょうどその頃にゲームをする時間も増え始め、友達と遊ぶことも増え、やや読書からは遠ざかりつつ高校生になります。

高校生というのは部活や日々の課題、友達との遊びなどでなんだかんだ忙しく、まとまった時間はなかなか取れないものです。それでも現代文の教科書は他の教科のものと比べても少し特別で、授業中に別の単元でやる作品を読んでいたりと読書の癖は抜けていなかったのです。

 

高校3年生の冬、センター試験を間近に控えた僕は、放課後にクラスの友達とセンターの過去問を解いていました。当時の僕たちのルールは、同時に解き始めて答え合わせをし、点数で負けた方が自販機のジュースを奢るというものでした。その日も同じように解いていたのですが、2012年追試分の現代文を解きつつ手が止まります。三浦哲郎の「メリー・ゴー・ラウンド」です。センター史上最難と言われた問題ですが、そんなことは知らずに問題文を読み始め、本の虫の血が騒いだのです。

なんだこの文章は。面白すぎる。センターなんかでやっていいものじゃない、もっと楽しんで読みたい。そう思いつつ自分の没入感のままに解き進めて答えあわせに向かいます。結果は散々なものでした。普段から現代文で40点を切らなかった僕を赤点まで貶めたのです。しかし僕にとってはそんなことよりもこの文章への感動を抑えられません。そのあとは受験勉強そっちのけで友達に自分の考えを話し、友達から返ってくる違う意見に首をひねりながらも解釈について考えていたのです。

 

やがて大学生になり、少し前の話。国文学科に入学した僕はまた本に近づいていきます。娯楽の少ない辺鄙な土地ゆえか、本屋で目に付いた本を買っては帰り、読み続けて夜を明かすこともありました。ある時ふと、あの「メリー・ゴー・ラウンド」をもう一度読みたいと思い立ったのです。しかしどの本屋を探しても見つからない。そこで調べてみるとなんと絶版になっていたのです。中古でも五千円を超える貴重な本になっていました。「木馬の騎手」という本でした。

読みたい、どうしても読みたい。いや、読もう。

Amazonで2日後に届いたその本は、かつて自分がクリスマスにねだったハリーポッターのように輝いて見えました。新品だった「賢者の石」とは違い、年季の入ったいかにも中古の本ではあるけれども、手にとって読み進めるうちに駆け巡る感動はあの時のものと変わらず、先に進むのが惜しいほどでした。読み終わって本棚に戻す時、あぁ、やっぱり本が好きなんだなぁと再確認しました。

 

そして今、扶養の都合で休ませてもらったアルバイトの時間がすっぽり抜けたこの時間に遠藤周作の「海と毒薬」を読み、眠れなくなってこれを書いているのです。おそらく僕は小学生の頃から何も変わらず本の虫のままなのです。他の娯楽や趣味が増えようが変わらず好きなこと、それが読書なのです。幸せだなあと心から思います。

 

 

ところで僕にはずっと前から癖のようなものがあります。それは、「買った新品の本には必ず全てブックカバーをつけて保管し、読むときはそれらを全て外して丸裸で読み、読み終わった時にはブックカバーを外して本棚に並べる」というものです。僕の本棚にはまだブックカバーをかけたままの文庫本が10冊ほど眠っています。

 

僕の読書の秋はまだもうしばらく続きそうです。

 

アニメレビュー : 『Just Because!』の話

こんばんは、高校生の青春群像劇大好き侍です。

 

今回は個人的上位かつ意外とマイナーなアニメをオススメしたいと思います。そりゃあ他にもたくさんオススメしたいアニメはあるのですが、Amazonプライムビデオのdアニメストアで復活してたのを知り、つい徹夜で全話視聴をしたため今回はこの作品の紹介になりました。

 

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今回の作品は『Just Because!』です。

これは2017年に放送されたオリジナルアニメであり、原作のあるアニメでは無いのが1つ目の特徴。2つ目はメインの声優さんに新人さんを多く起用してるってこと。3つ目はほぼ実績のない会社が作っているアニメだということ。

 

この3つの特徴だけだと「お前ほんとに大丈夫か、これオススメできんのか??」ってなるかと思うんですが、このアニメに関してそれは全く心配無用、まずはあらすじを読んでみてほしい。

 

湘南モノレールの通る場所、とある高校の3学期に1人の転校生がやってくる。中学の頃に引っ越していった主人公、瑛太は幼馴染の晴斗と再会し、クラスメイトである葉月に告白する勇気を出すための一打席勝負を仕掛けられる。同じく幼馴染の美緒が見守る中、場外ホームランでこの勝負は幕を閉じるが、このホームランから全ての物語が始まっていく。受験、就職、卒業を控えた高校生たちそれぞれの想いが交差する青春群像劇。

 

どうですか、観たくなりましたか。俺がここまで書く間に30分ほど考えに考えたんですよ。作品の良さをネタバレ抜きで言語化するのって結構難しいんですよね……

 

ここでもし興味を持ってくれた人がいるなら御の字なんですが、念のためもう一押ししていきますね。主に僕の好きな所を列挙する形で。

 

まず今高校三年生以上の年齢かつ大学受験を志したことのある人に関してはどのキャラクターにも移入できること間違いありません。舞台となる高校は進学する人と就職する人が半々くらいの中堅進学校って感じですかね。皆さんも経験があるかもしれませんが、推薦組が遊んでたりしてムカつく、みたいなのがあるんですよね。逆に就職する側としては進学という未来があることに嫉妬心を感じていたりと、「高校三年生」なりの悩みや雰囲気を思い出せる作品です。

あと皆さんも片想いしたことありますよね多分。クラスの気になる女子とかいましたよね!?中学からの片想いをなんとなく伝えられないとかありましたよね!?この作品のキャッチコピーは『あいつを好きな君の横顔が、たまらなく綺麗だったから――』。

これしんどい。マジで。作中通して全員が片想いの連続。心臓張り裂けそうなくらいのしんどさ。というかこれは真理なんですがね、「好きな人を見つめる時の人の顔」って本当に魅力的なんですよね……。この辺りの描き方がもうしんどすぎて無理(語彙力)

あと主人公はすんげえモブっぽい地味な顔なんですけど、「等身大の高校生」を追求してリアルを追い求めているからこそ、その地味さが心地いいというかしっくりくるんですよね。現代の「高校生」の教科書と言っても過言ではないと思います。気になる女の子を誘ってえのすい行ってLINE交換して舞い上がるとか、既読無視されて拗ねてたりとか、スタンプで会話するとことか、最高に「今」の感覚じゃないですか!?

あと派手な戦闘シーンとか動きのある描写が凄い!ってわけではないんですけどそのかわりキャラの心情表現とか気持ちを表す仕草とかがとにかく上手な作品です。

またキャラそれぞれもめっちゃ魅力的です。無愛想な転校生男子、おとなしい吹奏楽部女子、真面目系負けヒロイン、脳筋野球部男子、サバサバ系陸部女子、健気で真っ直ぐな性格で天真爛漫な行動で主人公たちを翻弄する激カワ写真部後輩(ワイの推し)とかとか。あと個人的に重視してるのが「キャラに感情移入できなくなるような突飛な行動をしない」って事なんですが、これも全く心配せず観ていられるのもデカいですね。某新◯誠作品のあるあるにみられる男主人公が突飛な行動して観る側が置いていかれる感じがめちゃくちゃ嫌いなんですよね。その話はまた今度。

 

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マジで可愛すぎる後輩、小宮恵那(CV.Lynn)

 

と、まぁこんな感じで列挙してきた訳ですがどうでしょうかね。彼らの恋を主軸にして物語は広がっていくのですが後半の怒涛の仕上げがまた素晴らしく、観ている側はそのスピード感からか最終回を観終えてからしばらく放心状態に陥ること間違いないです。というか僕がそうでした。

間違いなく2017年下半期最高傑作でした。マジで。単純に僕の受験期にモロ被りしてキャラ達と同時進行しながら受験を終えたということもありましたが完全に僕の青春の一コマとなってしまいました。

 

懐かしい青春の追体験、してみませんか?(建前)

 

 

 

 

お前もこの沼に落ちてストーリーのむず痒さに悶え死ね(本音)

善悪の基準と心のひだの話

どうもみなさんこんばんは。

 

今日は友人の結婚式に招待されて参加してきたところなのですがとにかく良かった。月並みな感想だとは思いますが幸せそうな2人を見てとても嬉しい気持ちになりました。ディズニー好きな新婦の意向もあってか夢の国のような雰囲気で和やかに進みました。

 

新郎とはまだ僕が中学時代の頃からの付き合い。出席した僕を見て「誰かわからんくらい成長したな」と言ってくれたのも嬉しかった。一回り以上年上の人だけれどその人の器のデカさのおかげでこうしてまだお付き合いさせていただいてるのがこれまた嬉しい。

 

実は今回、生まれて初めての他人の結婚式だった僕はとにかく焦った。マナー、しきたり、礼儀のどれも何も知らなかった僕はとにかく調べ、考えたのです。学生だからという身分にできれば甘えたくない、けれど実情色々と「大人」のステージには程遠いという葛藤に板挟みになりつつ、それでもせっかくの一生に一度の大切な日だから精一杯お祝いしたい…という気持ちを込めて臨みました。

 

さてこの時、僕が最も重視するのは「心のひだ」です。

 

 

人間には幸いにも主観と客観を入れ替えて考える力、「想像力」が備わっています。その想像力を働かせるためには他人の主観に自分自身を乗り移らせなければいけない。ここで難しいのが、「自分と他人は違う人間だ」ということ。偉そうなことを言いつつも僕自身、他人を完全に理解することなど不可能だと思っています。

 

そこで助っ人的に登場するのが「常識」という第三者の視点。これまた常識はどこにあるのかとか問い出すとキリがないので割愛するものの、事実として人々の間には常識という暗黙の了解が存在するのです。各個人のもつ「常識」という辞書を参照しつつ、「想像力」を働かせて自分の行動を律します。

 

言語化すれば難しく聞こえるようなことですが、人間はそれを無意識のうちにやってのけている。これは幼少期からの積み重ねなのだろうと思うのです。庇護してくれる対象(親や教師などの大人たち)から子どもはまず善悪の基準を体当たりで覚えていきます。幾度となく繰り返されるこの学習によって個人の中に善悪の基準というものが何となく形成されるわけです。

 

「あれはやっちゃダメ、なぜなら〇〇ちゃんが嫌がってたから」「これはやるとダメ。なぜなら自分が痛いから」といった具合にです。これは一見動物のしつけにも似た構図ですね。

 

「善悪の基準」が後天的なものであるのに対し、それとは別の自律基準があります。それが「心のひだ」です。これは母の受け売りになってしまうのですが、人にはそれぞれ感受性に差がある。感受性の豊かな子は心のひだが多く、乏しい子は少ない。しかし両者ともにひだが皆無というわけではなく、多かれ少なかれ同じ感動や悲しみ、喜びを感じているものであるという話なのです。

 

この心のひだ、僕の考えでは想像力と密接に関係していると思うのです。「自分が嫌なことを他人にするな」というのが母の教育でしたが、これは案外ハードルの高いことを言っているのです。

自分のもつ「常識」だけでは他人が嫌がることは全てカバーできない。「想像力」を駆使してもまだ難しい。そこで「心のひだ」が必要になるのです。常識と他人の感受性まで含めた想像こそが真の気配りであり何者も傷つけない行為のタネになるのだと思います。

 

心のすれ違いは人間である以上避けられないことではありますが、その機会をできる限り減らして皆が悲しくならない行動を取っていきたいものですね。

 

 

 

今回僕は結婚式で失礼な行動を取っていなかったでしょうか。心配すぎて煙草が止まりません。

人助けと自分助けの話

皆さんこんばんは。

 

皆さんも人助けしたことありますよね多分。電車で席を譲るとか重そうな荷物持ってあげるとか。えらいよみんな。

 

僕自身も自分で言うことではないのですが人助けは得意です。小さなことから命に関わる大きなことまで人助けをやったことがあります。別に自慢じゃないから勘違いしないでよね!(ツンデレ

 

さて、人助けは出来るとして、「自分助け」はどうでしょうか。

 

僕のような悪辣非道のクズ野郎でも一応血の通った人間なのでしんどい時もよくあるのですが、その時自分に救いの手を差し伸べられているでしょうか。

 

例えばブラックバイトで酷使されて疲れた時とか、クソ客に当たって理不尽な扱いを受けて傷ついた時とか、 何か失敗をしてひどく落ち込んだ時とか。

 

他人が困っている時にはすっと差し伸べられる手も相手が自分だとどこか「必要な試練」のような気がしてしまう、あるいはこのくらい大丈夫だだろうとその手を引っ込めてしまうことありませんか?

 

僕自身これまで自分助けがとても苦手な人間でした。人助けにはなにかとエネルギーが必要になることが多いのですが、人助けに疲れて気持ちが不安定になることもありました。

 

しかしある時ふと気づいたのです。自分が自分をないがしろにしているから疲れるんじゃないかと。自分助けが出来ないと自己回復が出来なくなるのです。いわばマラソン中に自分で給水所を蹴飛ばして飲まず食わずで走り続けているようなものです。それではゴールする前に息切れもするしすっ転んでしまう。

 

自分助けには「サボり」が特効薬になります。ギチギチに詰め込まれたシフトをブッチしてみるとか、ダイエットしてるけど今日だけはハーゲンダッツ食うとか、節約してるけど今日はいい服買っちゃうとか。禁煙中だけどたばこすっちゃえとか。普段からサボってばかりはもちろん良くないし白い目で見られるけれどもたまには大丈夫。極端な選択肢しか思いつかない他人を前にしたら「ちょっと落ち着いて他の選択肢探せよ」って言えるのに自分が相手だと両極端な考えしかできないなんてこともよくある話です。

 

自分が辛い時に助けてくれる他人はこれ以上なく大切にするべきものだけども、いつでも頼れるわけではないし、頼ったらそれは依存であり相手への束縛になりうる。外食より自炊の方がコスパがいいように、助けてもらうのを待つより自分助けをする方がコスパがいいのだ。

 

最後に、疲れて苦しくて辛いと感じている人にお節介を焼いておこうと思う。

 

 

逃げるは恥だが役に立つんだぞ。なりふり構わず逃げろ。そして自分を甘やかせ。

 

映画レビュー :「帰ってきたヒトラー」

こんばんは皆さん。

昨日の話とは打って変わって今日は映画の話です。レビューって他の人の純粋な感想って感じで見てて楽しいよなぁって事で好きな映画だったり好きなアニメを紹介しつつ記事を重ねていこうと思う。何せ多くの娯楽を知っている人間に女の子はハマりやすいらしいからね。聞いた話だけれども。

 

帰ってきたヒトラー

世の中には多くのナチスを描いた映画があるけれどその中でもとびきり僕の好きな作品。というかこれと「ヒトラー 〜最期の12日間〜」くらいしか観てないけど。でも良いんだよこの映画。正直この二作は知ってるって人多いんじゃないかな、特に後者は。ニコニコMADなんかで総統閣下シリーズってタグでネタになってるし。ちなみに「帰ってきたヒトラー」はドイツで出版されベストセラーになった小説の実写化なんだそうな。あと原作と映画ではストーリーの終わり方がやや違う。けど僕は映画版のラストの方が好きかな。理由は後述。

 

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楽しみは自分で味わってこそ楽しいよね、だからネタバレはある程度避けるよ、というわけで大雑把なあらすじ。

 

1945年に自殺したヒトラーは自殺直前の記憶を失って現代のドイツ、ベルリンの空き地にて復活する。もちろん中身と記憶は1945年のまま。自分が2011年にいると分かったヒトラーは偶然にもTV番組製作会社のザヴァツキにコメディアンとしてスカウトされる。トーク番組に出演するとその動画がYoutubeにアップされドイツ一有名なコメディアンになる。ザヴァツキと各地を回る中に聞いた政治的な不満をナチ党黎明期の状況に重ね合わせ、ナチス復活に向けて新・親衛隊を組織して再出発するところで物語は終わる。

 

うん、まぁざっとこんな感じかな。ネタバレなしだと薄い文章になるよね。星野源とかすごいよね。あの人のエッセイ大好きなんですよ僕。嫉妬に狂うわ。

 

話を戻すと、この映画が原作と異なるストーリーなのには理由があるわけ。ここからめっちゃ硬い話になるけど、これ知ってるともっと面白くなるからすこーし我慢してくれよな。

 

公開当時の2015年のドイツでは難民問題が浮上していた。当時のメルケル首相が中東やアフリカ大陸からの移民を積極的に受け入れており、たった2年ほどでその数およそ100万人を超えた。これに国民は猛反発し選挙では排外的な政党が下院に議席を獲得する大波乱になった。ドイツに限らず、欧州の国々は移民政策に対して好意的ではない。また特にドイツに関して言えば、この問題はもっと根深い。東ドイツは今からほんの28年前に移民によって政府が崩壊している(ベルリンの壁崩壊ね)のだから移民に対する姿勢は人道精神第一!といったものだけじゃないのは分かる。とはいえ、学生も含めたボランティアが最も活発になった時期でもあるのだから話はより複雑になる。

 

という前置きを踏まえて映画の話に戻ろう。この映画の監督は原作になかったカットを挿入した。ザヴァツキとヒトラーが各地を回るシーンだ。この映画で描かれているドイツ国民はエキストラではない本物の国民だ。ドイツ市街にヒトラーを見つけて自撮りをするのも、ヒトラーに政治的不安を煽られているのも現代のドイツ国民なのだ。冷静に考えてヤバい。こうして限りなくリアルなヒトラーを演じた当時無名な舞台俳優だったオリヴァー・マスッチだが、彼は「現代社会の中にヒトラーのような指導者が現れた時、右派になびいてしまうような隙がまだ人々に残っているのか」という興味のもと主演を引き受けたという。事実この映画は壮大な実験に見え、映画版のラストは観た人の脳裏に直接赤信号を点滅させる。ヤベェじゃん!ってなる。ドイツ人のみならず、日本人にとっても他人事には思えない映画だ。というか、平和ボケしている日本人には全員に見せたい素晴らしい映画である。

 

と、ここまでダラダラと本編とその前置きについて書いてきたものの、僕がこの映画を推す理由は単純明快だ。一行でいい。

 

 

 

 

笑ってはいけないナチスドイツ105分

 

 

 

 

 

「お前これ観て笑ったな?はいアウトー!デデーン!〇〇タイキックー!」てな具合である。ザヴァツキは事態のヤバさ、というか世界のヤバさにすんでのところで気づいた。が手遅れ、辿った結末は方正ビンタに近いものがある。観る側、ヒトラー以外の出演者全てがプレイヤー視点の立場に近い。そもそも「ナチス」というテーマVS我々の構図なのだ。

僕がここまで「笑ってはいけない」理由を説明してきたのはこれを総統閣下シリーズの長編版として消費して欲しくないからなのだ。いや、まぁ本編でもイジってるんだけどさ。ほんの少しだけ自分の周りに反射させて照らしてみてほしい。ガキ使ならケツしばかれて終わりだが現実はそうではない。なあなあにして笑っていた先には笑えない未来が待っている。笑い事にしてはいけないこともあるのだ。

 

 

 

 

 

ところで、レビューって感じじゃなくなったね。まぁいっか。ケツしばいていいから許して。