oons0531のブログ

タバコ一本あればいい。

善悪の基準と心のひだの話

どうもみなさんこんばんは。

 

今日は友人の結婚式に招待されて参加してきたところなのですがとにかく良かった。月並みな感想だとは思いますが幸せそうな2人を見てとても嬉しい気持ちになりました。ディズニー好きな新婦の意向もあってか夢の国のような雰囲気で和やかに進みました。

 

新郎とはまだ僕が中学時代の頃からの付き合い。出席した僕を見て「誰かわからんくらい成長したな」と言ってくれたのも嬉しかった。一回り以上年上の人だけれどその人の器のデカさのおかげでこうしてまだお付き合いさせていただいてるのがこれまた嬉しい。

 

実は今回、生まれて初めての他人の結婚式だった僕はとにかく焦った。マナー、しきたり、礼儀のどれも何も知らなかった僕はとにかく調べ、考えたのです。学生だからという身分にできれば甘えたくない、けれど実情色々と「大人」のステージには程遠いという葛藤に板挟みになりつつ、それでもせっかくの一生に一度の大切な日だから精一杯お祝いしたい…という気持ちを込めて臨みました。

 

さてこの時、僕が最も重視するのは「心のひだ」です。

 

 

人間には幸いにも主観と客観を入れ替えて考える力、「想像力」が備わっています。その想像力を働かせるためには他人の主観に自分自身を乗り移らせなければいけない。ここで難しいのが、「自分と他人は違う人間だ」ということ。偉そうなことを言いつつも僕自身、他人を完全に理解することなど不可能だと思っています。

 

そこで助っ人的に登場するのが「常識」という第三者の視点。これまた常識はどこにあるのかとか問い出すとキリがないので割愛するものの、事実として人々の間には常識という暗黙の了解が存在するのです。各個人のもつ「常識」という辞書を参照しつつ、「想像力」を働かせて自分の行動を律します。

 

言語化すれば難しく聞こえるようなことですが、人間はそれを無意識のうちにやってのけている。これは幼少期からの積み重ねなのだろうと思うのです。庇護してくれる対象(親や教師などの大人たち)から子どもはまず善悪の基準を体当たりで覚えていきます。幾度となく繰り返されるこの学習によって個人の中に善悪の基準というものが何となく形成されるわけです。

 

「あれはやっちゃダメ、なぜなら〇〇ちゃんが嫌がってたから」「これはやるとダメ。なぜなら自分が痛いから」といった具合にです。これは一見動物のしつけにも似た構図ですね。

 

「善悪の基準」が後天的なものであるのに対し、それとは別の自律基準があります。それが「心のひだ」です。これは母の受け売りになってしまうのですが、人にはそれぞれ感受性に差がある。感受性の豊かな子は心のひだが多く、乏しい子は少ない。しかし両者ともにひだが皆無というわけではなく、多かれ少なかれ同じ感動や悲しみ、喜びを感じているものであるという話なのです。

 

この心のひだ、僕の考えでは想像力と密接に関係していると思うのです。「自分が嫌なことを他人にするな」というのが母の教育でしたが、これは案外ハードルの高いことを言っているのです。

自分のもつ「常識」だけでは他人が嫌がることは全てカバーできない。「想像力」を駆使してもまだ難しい。そこで「心のひだ」が必要になるのです。常識と他人の感受性まで含めた想像こそが真の気配りであり何者も傷つけない行為のタネになるのだと思います。

 

心のすれ違いは人間である以上避けられないことではありますが、その機会をできる限り減らして皆が悲しくならない行動を取っていきたいものですね。

 

 

 

今回僕は結婚式で失礼な行動を取っていなかったでしょうか。心配すぎて煙草が止まりません。